「震災文学」について考えるー和合亮一講演会、高橋源一郎『恋する原発』― « 大谷大学 文学部 国際文化学科Blog
少し前のことだが、ラカンの読書会でお世話になっている新宮一成先生が企画された関係でお誘いを受け、福島在住で、震災以後ツイッターで詩を発信して話題になっている和合亮一さんの「これからを生きるために・詩の礫」という10月8日に京大で行われた講演会を聴いたときのことを思い出す。
講演の前日あわてて本屋に行き3冊の詩集を買い求め頁を開いて唖然とした。これが詩だろうかとおもってしまったからだ。「時には残酷な青空」「春はやはり残酷だ 黙礼/ 祈るしかない 福島で生きる」のような、あまりにストレートな心情を直接吐露した言葉の連なりに疑問もわき、講演に臨んだ。最初に紹介された和合さんの耳から聞いただけでもわかる震災前に書かれていた現代詩の凄さを聴くと余計、震災後の作品への疑問が高まった。
講演は被災者ならではの言葉が続き、最初の地震そのものに対する怒りの感情から、やがてはどうしようもない「悲しみ」へと至る感情、さらには「悲しみの果てにあるのは何だろう」と考えるようになった経過、故郷福島への熱い想いが語られた。和合さんは講演の最後に、町の人々を救うためにマイクを握ったまま高台に避難するように放送し続け、自身は津波に飲み込まれて亡くなった女性の言葉を繰り返し、詩の言葉はちょうどその女性が発した言葉のように、暗闇の中で人々を導き、救うことのできる「明かり」のようなものであってほしいと言われた。
講演を聴きながらぼくはうっすらと涙を流し続けながらも、一方では冷静に最初に浮かんだ疑問を考え続けていた。「いやこうした未曾有の悲劇に対面した時、詩は、いや言葉で表すということはどういうことが可能であり、価値のあることなのだろうか?」と。
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また『思想としての3・11』(河出書房)の冒頭で佐々木中が「私は恐れます。(…)痛ましくも死者となった、そして被災者となった方々を『利用』することです。しかもバルトやドゥルーズが批判した『発言を強制する』ような、無言の圧力に負けてそれを行うことです。」と言っていることがずっと心に引っかかっている。
今も考えているその問題にヒントとなるのではないかと思われる作品を今日読み終えた。高橋源一郎の「恋する原発」(群像11月号)である。これが驚くべき作品と呼べるのは、3月11日以後の問題を表現するものとしてどのように考えるかということが本当に真剣につきつめられているからであり、しかもそのストーリー展開の方法が「ポルノ」の手法を用いていることだ。
大震災の被害者を救うためにチャリティのためにアダルトヴィデオを制作しようとする語り手が主人公であり、最初は、いわゆる「頑張れ、ニッポン」とか「皆さんを全力で支援します」のようなその他数多くの、震災後巷に流布している言説というか言表をそのままそのAVの言葉とならべることで、そうした言表のむなしさを浮かび上がらせようとしたのだろうと思った。ただこうした高橋にはおなじみの手法は不謹慎というより、逆にパロディであるという受け止め方のパターンに印象がはまってしまい、読んでいて笑いはするが衝撃はなかった。
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しかし読み進めるうちに「ウンコ」という語や性器を表すことばをそのまま何度も書くことで何を狙っているのかが分かって来た。高橋はこの作品で震災後だけでなく、現代日本で言葉として表すこと、そのなかでも文学作品ではタヴ―とされてきたこと、つまり見えないものとしていたことを、ちょうどポルノ作品が隠すものを露わにするように、明るみに出そうとしているのだと分かった。
ぼくのように、くだらないと思って読み進めたとしても恐らくすべての読者はこの「小説」のなかの「震災文学論」という章だけでも読めば、高橋がこのポルノ、しかも笑うしかないほどばかばかしく書かれている言葉の連なりが、その背後に現実への文学でしか到達できないと思われるほどの深い考察がなされていることに感嘆するだろう。
この章で紹介されている十年前の9月11日にアメリカでおこった同時多発テロに対してのスーザン・ソンタグについて書いている部分はそのまま書き写したいくらい見事だ。小説の語り手はここで「あらゆる戦争は憎むべきものであり、二度とこのようなことを起こしてはならない」と書いてから自分の考えを書くことや、「人間の生命は絶対に奪ってはならないものだ」と書いてから論じるが、こうした「正義の論法」は建前であり、「文法」にすぎないと断言する。
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「ソンタグは『テロは絶対に許されない』の前に、『テロとは何か。時に、テロを必要とする者もいるのではないか』という問いを置いた。考える、ということは、どんな順番で考えるか、ということだ。それ故、彼女は『アメリカ社会の敵』と見なされた。(…)
だが、数千の自国民の犠牲を目にして、なお、『テロとは何か。時に、テロを必要とする者もいるのではないか』という議論を冷静にできる国家(民)は、いかなるテロによっても毀損されることはないはずだ。ソンタグがいちばんいいたかったのは、そのことではなかったろうか。」
さらに、恐らく高橋自身の考えそのままであろうと思われるが、語り手は断言する。
「ところで『この日』(注 3月11日のこと)とはなんだったのか。震災によって、この国の中で隠されていたものが顕れた日のことだ。戦後の六十年、あるいは、近代の百四十年が、あるいはもっと射程を長く、遠くにおいて、隠蔽されつづけてきたものが、人びとの前に顕れることを、その人は待ちつづけていたのである。」
ここで紹介されている人とは震災に関するインタヴューで、「ぼくはこの日をずっと待っていたんだ」と言った人であり、本人は名を記してもいいといったにもかかわらす、高橋が世間の誤解に基づくその人への批判を恐れて書かなかった人のことである。この事実そのものも語り手が説明している現実をそのまま表していると思う。
この部分に続く、川上弘美の『神様(2011)』と宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の完全版と石牟礼道子の『苦海浄土』からの抜粋の分析は本当にすばらしく、ここ数年高橋がとっている手法、批評をそのまま小説に導入する手法がもっとも成功しているところだ。
「死」や「老い」を「汚れ」と見なすだけでなく、あらゆる「汚染」をわれわれの視線から遠ざけるようにして発達してきた現代日本を告発する語り手は、「おそらく、『震災』はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、ずっとそのことに気づいていなかっただけなのである。」とまとめている。
この章の後、小説はもとのAV制作の話しにもどり、今度は「そっくりの男」「そっくりの女」という名目で現在の世界を動かしている各国大統領や重要人物がタレントそっくりの人形とともにAVに出演する。
読み終えたばかりでこの小説が小説として本当に優れたものなのかどうかはまだ判断できない。しかし大震災以後の喪と、放射能の恐怖に日本全体が覆われているいまにおいてこそ生まれた表現であり、停滞しがちな思考に亀裂をいれてくれる作品であるのは間違いないと断言できる。(2011年10月26日。番場 寛)
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